「サーモンパーク」出来上がりの思い出

梅沢 健三

  たしか今から30年くらい前の日曜日の朝のこと。

「鮭鍋つくりに出かけます。お手伝い出来るのでしたらどうですか。」

   家内から声がかかった。家でブラブラ留守番だけよりも何か面白そうな出会いがあるようなそんな思いで「何の手伝いにも成らんと思うが。」と出かけたのが始まり。

   そこには入口さんご夫妻を始めフジプラの藤本さん、測量士の池田さん、千歳信用組合末広支店の末広会メンバー他多くの友人知人が集まっていた。

  自衛隊の11連隊からお借りしたという移動式ストーブに大きな鍋が架かっており、もうその鍋にはお湯が沸いていた。若い隊員の方々も燃料用廃材を折ったり割ったり手伝っていた。

   最初の「鮭まつり」は末広商店会、千信末広会、その他近隣の友人知人の祭り好きが集まって始まったようだ。

   以来、秋が来て千歳川に鮭がのぼり始める頃、決まって声が掛かるようになった。
  この「鮭まつり」の生みの親である入口さんはもう鬼籍に入る。寂しい限りである。

今、地方の時代とか地方分権の時代とか国の中央集権に対して財政も大変な破綻を来たしてしまい、地方に何とか助けを求めているような感じ。何を今更地方の時代と可笑しく思っている一人である。

   地方自治法が制定された昭和22年5月3日(新憲法施行と同時期)以来地方分権は間違い無く存在していた筈なのだ。

   地方のまちづくりの手法も、国側の方針に沿うことを前提にことを進めることではないよと気色ばんで頑張るつもりもないが、千歳がシコツと呼ばれていた時代からこの地域ほど「鮭鱒」との係わりの深さの大きな都市はない。

  千歳の文化文明歴史の姿を象徴する「鮭鱒」を祭りのテーマにして収穫を感謝する祝いを行う意義は誠に大きいものがあるし、特にこの末広には「西越採卵場」としてインディアン水車が活躍していた地域でもあるから尚のことであると思っていた。

この「サケまつり」が何回か続いた頃、インディアン水車周辺の河川改修計画が持ち上がってきた。

   当時、小生は環境部長を担っていた関係から、「公害審議会」の席上、委員の一人である水産庁千歳さけます孵化場長坂野さんから「千歳川河川改修のため、インディアン水車が邪魔になると言われて困っている。どうしたもんだろう。」との発言があった。

「公害審議会」は環境部にとって、環境部の議会とまで呼んでここでの議論を大切に扱っていた。当時の審議会の会長は、公害の島本か根本かと言われた有名な根本社会党市議。河川用地は河川管理している開発局のもの。他から何を言おうと通る話にはならない。ところがである。その坂野委員から「河川用地の中に水産庁管理用地があるんです。」と意外な発言。千歳川のさけますは土地を持っていたんだね。流石に昔の人は考え深く偉かったなーと関心しました。

   開発局は水産庁の同意が無ければいくら「治水対策だ」と行っても勝手に改修計画を進められないと先祖は考えて水産庁の名義にしていたんだ。驚いたね。

   ここで入口さんご夫妻以下地域の皆さんの長い間の熱心な「鮭まつり」という地域おこしを続けてきた姿が浮かんできた。

   「会長どうです、水産庁管理用地を中心にして「鮭まつり」の行事ができるそしてインディアン水車も活用できる公園計画を考えてみたら。」と提案した。会長は「環境部長、知り合いのシンクタンクにお願いしてこの地区にふさわしい「絵」を描いて貰ったらどうか。それによって良く検討しよう。」  

   しかし千歳市の新長期開発計画には無いこの計画。巧く議論の粗上に乗るのはとても大変で難しい話。小生のような手順を重んじる事務屋あがりの堅物、背負える当てなど全く無い。「それからの事は私が考える」という根本会長の言葉に、とにかくやれるだけの事はやろうということで、仮称サーモンパーク計画の一枚の絵が出来上がった。

   昭和53年12月第4回定例市議会(本会議一般質問)質問者 根本 敏美(社会党)

   質問項目「千歳川改修計画と都市美観保持の問題」にて根本会長は、「仮称サーモンパーク構想について理事者の見解を問う」と、規制が主の河川管理を改め、河川が持つ自然・文化性などの側面から地方行政中に位置付ける問題、そして入口さんを始めとするこの地域のまちづくり寄せている熱い思いも含めて説明された。

   もちろん入口さんを中心とする地域の方々も「仮称サーモンパーク構想の実現について」の陳情書を、市長、市議会に提出し援護射撃に出たことは当然であった。

   当時の東峰市長、岩瀬助役。特に最大の権力者実力者であった岩瀬助役は非常に関心を深めた様子。千歳市の従来からの課題である「通過型都市から滞在型の都市へ」脱皮に欠くことが出来ない重要ポイントの箇所。

   岩瀬助役、「根本さんこの計画は充分検討にあたいする。」と発言、見事議論の対象として粗上に乗ったのだった。

   と言う訳で、市議会、産経常任委員会とも活発な議論が続けられ、今の「サケのふるさと館」の原型が出来上がった。
この「サケのふるさと館」。出来上がるまでには相当時間がかかったと思う。しかし水産庁の皆さんには大変お世話になったし有難かった。行政側でも財源問題のこと管理運営主体のこと等で随分苦労をしていた商工観光部長以下スタッフもいた。

   今の「サケのふるさと館」。管理は青少年教育財団が行っている。従って所管は教育委員会で商工観光部ではない。誕生の由来から考えるとどうも納得がいかない。

   まぁどこで管理しても良いのだが出来上がった経緯、歴史を充分熟知して、「インディアン水車まつり」がこの施設の建設につながった原点であるということを常に大切にして事に当たって欲しいものである。