座談会

 

創成期の「水車まつり」

 

と き
 : 1月29日(木) 18時から21時
 
ところ
 : 金太郎寿司
出席者
 : 梅沢 健三・藤本 敏広・入口 セツ・梅沢 陽子
進 行
 : 神出 晴夫
オブザーバー
 : 入口 博美・清水 清光

 

(入口博美)

インディアン水車まつりが25回になったので、記念式典をやりたいということになっていて、実行委員会を先日作りました。

ところが、記念誌を作るにあたって1回から4回までの資料が全く無いのでどうするかって言うところから、梅沢さんの奥さんから「座談会やったら良いんじゃない」と話があって今日の座談会をやることになりました。

今日は1回から4回までの懐かしい話を、実行委員長が司会ということで進めてもらえればとおもいますので宜しくお願いします。

 

(神出)

本日はお忙しい中、お集まり頂き大変ありがとうございます。

インディアン水車まつりが始まったのが「第1回千歳川さけ祭り」として昭和54年にスタートしたのですが、その2年前から末広の町内会館(現花園町内会館)で「秋あじ祭」を開催していたと聞いてるのですが、そのへんのところからサケ祭りに至る経過を、当初から祭りに係わってきた梅沢さん、入口さん、藤本さんにお聞きしたいと思います。

藤本さん、第1回の「秋あじ祭」を開催した時、主催は末広会となっていて、共催が末広会青年部敬友会となっているんですが、そのへんのことを。

池田さんのところで看板を作ったとも聞いているんですが。

 

(藤本)

46年に千信(千歳信用組合末広支店)が出来て、末広会が何年に出来たのかな?2年ぐらい後かな、その時は実行委員とかいなくて、第1回は花園町内会館で僕と池田さんと花田さんとか、若い青年部でやったんです。第1回、第2回は。

その時、看板が無いからって、会費も取らないし、予算も無いからって、池田さんの測量で使った「池田測量事務所」てやつを、ペンキ塗って「秋あじ祭」ってしたんだよね。その時は町内の人、それでも200人ぐらいきたのかな。サケ鍋もその時は海の魚を使ったんだよね。それやったら、人が来るからインディアン水車のところでやろうって、祭りが始まったんだよね。その頃、寿和会の踊りがあった。

 

(入口セツ)

その時はまだ寿和会が無かったから、婦人部で・・・

 

(藤本)

そうそう婦人部だ。そのあと会館から離れて、商店街の人とか、千信のいろんな会の人が皆んな入ったんで、脇さん(脇 勲氏)なんか入って、脇さんあたり、ノボリ50本ぐらい寄付してくれた。

 

(神出)

それが第1回ですか。

 

(藤本)

そう、駅からずーっとノボリを立てたんだもの。

 

(神出)

それが54年ですね。町内会の「秋あじ祭」は2回やっているから、52年からですね。

 

(藤本)

そういうことになるのかなー、なにしろ古いことなので忘れてしまった。

 

(神出)

その時のプログラムが出てきたんです。

 

(藤本)

本当、良くあったな、誰が見つけたの。

 

(入口博美)

うちのおふくろさ。そのときに、それこそ演芸があって、寿和会でなく町内の婦人部で。

 

(入口セツ)

そこでやってから、そのあと川のふちで、中村商店さんの、その向かいでやったの。

 

(神出)

その時の売店は末広青年会と実行委員会?

 

(藤本)

売店は青年会でやったんだ。実行委員会ではやらなかった、我々だけさ。売り上げはみんな青年部だもの。売店だけだよ、鍋とかは実行委員会でやったよ。

2回くらいまではそれしか無かったけど商店街の人が、川村さんあたりが、これだけ人が来るんだから末広商店街でやろうと言う事でね、市役所も入ってきた訳さ。

1回のときは薪だもの。

 

(梅沢陽子)

マキ割ってだものねぇ、木端集めって、穴掘って・・・。

 

(梅沢健三)

もっと前からだったような気がするんだが。

 

(神出)

千歳市史の記録は昭和52年になっているんです。「秋あじ祭」を第1回さけ祭りとしているので2年ずれているんです。25周年はインディアン水車のところでやってから数えているので、町内会館での2回は入れて無いんです。ですから商店街が入った昭和54年を第1回にしているんです。

 

(藤本)

54年は商店街が入った第1回で、その前に、中村さんの横でやったのが入っていないような気がする。

 

(梅沢陽子)

マキ割ってやっていたもの、何回もね。

 

(梅沢健三)

56年頃だったかな、議会で。今のふるさと館の根拠になるような議題が出たとき、私が環境部長をやっていて、公害審議会の会長が根本さんで、その時の委員が孵化場の場長さんだった。

ここの、千歳川の河川改修をするのに、河川用地に・・・、河川用地と言うのは開発局の土地だから、その河川用地の中に、水産庁の土地が入っていた。その土地の利用について、活用について、どうしたもんだべ、といった話があった。

その時、あそこはサケ祭りをやっている。地域の人が鮭を通じて地域のマチづくりをやっているから、それにふさわしいような何か施設を、インディアン水車を働かせるかたちでやれないもんかと言う話が出て、それは良いことだって言うんで、ある所に・・・、知り合いのところに絵を描いてもらったんだ。

その絵が話題になって、それで根本さんは議会の本議会で、その絵を見ながら理事者の考え方を質問した。その時に早速その話にのってくれたのが亡くなった岩瀬さんで、助役の岩瀬さんがその話に乗ったんだわ。「そりゃぁ良い話だ」って、そして、その話を具体的に企画で調整するようにって。

その意見を公害審議会の意見として、その時の委員の一人、孵化場長の坂野委員に相談を投げかけて・・・。やっぱりこういう施設は、マチづくりの拠点の施設づくりというのは、公から頂いて、ただ市民が使うのではなく、市民が自らの力で実績をつくりながら、こういう施設を造っていくのが一番望ましいんだ。「理想的なマチづくりだよ」って話で、話がずいぶん広まって・・・。だからそこまで入口さんを中心にしてサケ鍋を作って、皆んなにふるまったり、毎年、毎年続けてきたということが、今のふるさと館の根拠にきちっとなければいけない。祭りをやっているとき、ふるさと館の人方にとってどんな位置づけであるか、いつも思う。

 

(神出)

今のお話に関して、第5回の時に祭りの規約を作ったんですが、その時は観光課の開発一美さんが事務局をしていて、お手伝いしたんですが、その規約の目的に公的施設をつくることが入ってたんです。

末広地域にはなんの公的施設も無いので、まつりを通して誘致しようという意味のことが・・・。開発さんはサーモンパーク計画も担当していたので、お話にあった絵は見たことがあります。どうしたら良いかって、相談を持ち掛けられて、JCにいる頃だったので、委員会で検討したことがあります。それでJCが鮭の自然産卵水路構想に取り組むことになった。

 

(藤本)

我々が最初の頃、サケを守る会が・・・、あの時が東川さんなんだ。我々が祭りをやっているとき、川で釣りをやっているんだ。釣りを、あれをやっぱりきちんとしなければって、サケの会を作ったんだ、いつ頃だたかなぁ。

 

(神出)

それは58年頃ですね。サケの会を作って直ぐ鳥居を作りましたね。サケ神社の。その時さっきの話にあった河川用地のことを知ったんです。「鳥居を建てさせて」って藤本会長と一緒に石建(石狩川開発建設部恵庭事業所)にお願いに行ったんです。東川さんから(石建に)連絡が行っていて、石建の所長さんも東川さんという名で、30位の若いキャリアの人だった。地図指しながら「開発局の土地の中はだめだ」「だけどこの辺に水産庁の土地がある」、「その辺なら」って、つまり開発局とも水産庁とも区別の付かない境界あたりだと良いと暗に言ってくれた。どっちも「自分の土地ではない」って言い訳できるからね。

サケの会と言えば署名運動もやりましたね。

 

(藤本)

護岸反対で署名運動やったんだよね。いつ頃だったかな。

 

(神出)

署名運動は61年だと思います。と言うのは、祭り近くなると、露天がいろんな所に店を出して「まつり」の支障になるので、地権者名で禁止の立て札を立てようと思い、詳しい図面を市役所にもらいに行ったんです。その図面に、日の出橋から人道橋までの2本の測量線があり、その中に川岸の林がスッポリ入っているもんだから、「もしかして林が無くなるんでは」って思って、その話をサケの会で話したんですよ。そしたら藤本会長がそれは大変だから直ぐ調べてみようって・・・、それが発端で署名運動につながって行った。

その図面が61年の資料で、その前には無いのでそう思います。

藤本さん、治康さんに確認しておいてもらえますか。

 

(藤本)

うん。何万人も、いや2万人ぐらい集めたんだよね。

 

(神出)

話を戻しますが、さっきの梅沢さんの話に関係しているのか・・・、56年ころだったと思うのですが、千歳川のサーモンパーク、ママチ川の釣り公園、長都川の??ちょっと忘れましたが三つの川を公園として整備する構想を新聞で見た記憶があるんですが。

 

(梅沢健三)

あのね、まさに、字の三本川の「川」で、三つの川、千歳川を中心としてママチ川と長都川、長都川は長都川なんだけど勇舞川の、そういう千歳の川を大切にする、そういうようなマチづくりの考え方が当時、ちょうど佐々木くんが環境課長の時にあった。

 

(藤本)

開発さんが観光に来たのは何年頃なんだろう。

 

(神出)

開発さんは2回来てるんですが、最初は川崎さんだったかなぁ、事務局をやっている時だったから第3回か第4回だと思います。その時まつりで赤字を出しているんですよ。それで開発さんは自分で50万円借金をして精算した。その穴埋めで、余ったTシャツやトレーナーを一緒に売り歩いたことがあるので。

 

(梅沢健三)

何年頃の話。

 

(神出)

57年でないかと思うんです。その頃、当時「山三ふじや」にいた斉藤 征義さんが、空港まつり復活の仕掛けをしていて、私は知り合ったばかりだったけど、頼み込んでふじやの本社までTシャツ売りに行ったので・・・。

その翌々年かな、いろいろトラブルがあって、祭りの組織が壊れそうになったんです。

当時、日航ホテルで朝食会と言うのやっていて、これも空港まつり復活のための仕掛けなんですが、そこで、その話題が出たんです。東川さんもメンバーだったから。

「まつりが無くなる、大変だ」ということになったらしいんです。その日私は前夜の深酒で欠席していたんですが、朝7時半過ぎに米田 忠彦さんから電話がかかってきて、「昨日何かあって、まつりの組織がバラバラになったって皆んな心配してるけど、どうなの」って問い合わせがあって・・・。気になって、事務局に顔出すと、開発さんから組織強化しないと大変だ、手伝ってくれと言われた、私が総務に入るきっかけだったんです。

 

(入口セツ)

これねぇ(記念誌)開発さんの名前全然出ていないんだけど、あの人何年も総務やっていたから。

 

(神出)

開発さんは始めの頃役員に名前を出さなかったんですよ。5回目の時、開発さんが記念行事で、会場に川を作り、鮭を放そうとしたが、うまい方法が思いつかないんで悩んでいたんです。藤本さんがそれを聞いて、そんなの簡単に出来るって言ったんです。穴掘ってビニール敷けば良いんだもの。それでサーモン・クリークが出来たんです。開発さんは行政の人だから、公園を掘るなんて考えなかったんです。

 

(藤本)

そう言えば中村さんの店の前でやってる頃、(店の)前に池を作ったんだよ。真ん丸い。そこで掴み取りやったんだ、一番始めはね。

 

(入口セツ)

この1回目って(記念誌に)出ているのは4,5回やった後の1回目だから、それこそマキ焚いてやった頃は入っていないんだ。

 

(藤本)

1回目会館でやった時、そんなに派手にはやらなかったけど、鍋を作って皆んな食べにきた。

 

(梅沢陽子)

そうそう、マキを焚いてね。あそこで2年か3年やったんだもの。何年か基礎が出来てから祭りになったんだよね。

 

(藤本)

もしこれが1回目なら、ノボリなんか脇さんと駅からずっと並べたんだよね。

 

(神出)

それは私も一緒にやっているので・・・。

 

(梅沢陽子)

さけ祭りとして名前をつけたのはかなり後から・・・。サケ祭りとしたのはね。

 

(入口セツ)

だから、岩瀬さんの奥さんとか皆んなで、末広会中心で。

 

(梅沢健三)

末広会だけど、末広会青年部というのがあって、青年部も一生懸命やった。そういう人達で自衛隊から仮のストーブと鍋借りてきて、三つ位で、燃料はそこら辺のザッパをマサカリ持ってきて、割ってもらったり、自衛隊さんも演習か訓練の作業着着たままで15,6人来て、若い人やってくれて・・・、一生懸命マキだか割ってくれて作ったことがあったなぁ。そういう下地があって、その時入口さんも中心で。

 

(藤本)

そう、始めから入口さん。

会館でやった時だけ我々中心、青年会が。池田さんとか石田さんとかで会館でやったんだもの。会館でやった時が初めて、そして「これならもうインディアン水車でやろう」となった時は末広会が主体だった。

 

(梅沢健三)

末広会というのは千信の末広支店を利用している皆さんの会で、だから信組なんかも一生懸命だった。

 

(梅沢陽子)

だから高橋 為次さんの名前が出て来るんだよね。

 

(梅沢健三)

高橋 為次さんが出てくるのは千信の理事長だったから。お得意さんが頑張っているのにだまって見ている訳にはいかない。

 

(入口博美)

昭和52年に町内会館でやったのは、それは「秋あじ祭」?

 

(入口セツ)

私も、第1回手伝ってくれた人の資料があったんだけど、今年投げてしまって、これ(座談会)聞くちょっと前に、知らなかったものだから。それ見れば、だいたいわかったんだけど。毎年、開発さんが苦労してね。サケ鍋の材料をね、どのくらいどうしたら良いかって。

資料がちゃんと残っていたんです。だから、3年か4年、開発さんやったんでないですか。

 

(神出)

その頃、開発さんと一緒に総務やっていたんです。その前の年(総務を一緒にやる)から開発さんはやっていたと思います。実行委員に参加しているだけの時、開発さんがサーモンカントリー千歳のエンブレム作り、ロゴを商標登録しようと提案したことがあるので。

川崎さんが事務局長みたいな立場でやっていた時、開発さんが来たんだ。その時に赤字が出たんだ、さっき話した。

 

(梅沢健三)

57年が7・8回目という記憶があるんだけれど、それからさかのぼっていくと何年目になるの。

 

(入口博美)

49年ですけど、そうすると話が合わなくなる。

 

(入口セツ)

これに(ポスター)に月日があるけど年が無い、何年なのこれは。

 

(神出)

ポスターが54年なのは間違いないんです。

 

(梅沢陽子)

第1回さけ祭りと名前を付けたのは54年で間違い無いと思うけど、その前に何年もやっていたと思うの。

 

(入口博美)

そうすると、創成期というのが7,8年あることになる。

 

(梅沢陽子)

何回くらいあるかな、5,6年やったような、まだあそこ(中村商店の前)で焚きつけ持ってきたり、燃料がマキで、ガスになったのは大分後だよね。

 

(藤本)

僕が千歳に帰ってきて会社を始めたのが46年だから。千歳に帰ってきて1,2年は「どこの息子だか」と言った感じで相手にされなかったけど、2年ぐらい仕事やって、それなりに入口さんの社長なんかに可愛がられて・・・。その後だもの。

 

(入口博美)

町内会館でやる前に何年ぐらいやったんですか。

 

(入口セツ)

いや町内会館が初めてだよ。そこでやってから中村さんのとこ、水車のとこで・・・。

 

(入口博美)

僕、昭和52年に結婚したんですけれど、第1回のプログラムあるでしょう。演奏でその時エレキバンドで出てるんだけど、その年は石田さん達も出ているんです。それがスタートと認識しているんだけど、それなら52年になる。

 

(藤本)

そうか、昭和52年なんだ。会館が初めてだ、その前にはやっていない。

 

(神出)

多分今までの皆さんの、話している「千歳川さけ祭り」1回目の様子は第5回ではないかと思います。昭和58年末広商店街が振興組合になって、「まつり」に力を入れて役員も大勢出したし、ノボリも寄付してくれた。それまでは末広会が中心で、商店街はそれほど目立っていたんです。先ほどからの話で出てくる、中村さんの前で、マキ割ってサケ鍋作っていたんです。売店のテントも2張りだけで。中村さんのトラックの荷台で鮭の即売会やったりもした。

それなら皆さんの話が全て繋がるんです。

まぁ、年度のことをここで思い出すのは大変なことなので、それは置いといて、その頃係わっていていた人はどんな人たちですか。何人かは、先ほど出てきたけど。

 

(入口セツ)

そうね、農協、末広実行組合のメンバーと、それと・・・。

 

(藤本)

まず、町内会館で係わったのは僕と池田さん、花田さん、小川さん、石田さん、高田さん、ようするに青年部だけです。1回目は花園町内会館(当時は末広新町町内会館)でやったんだけど、鍋もふるまって、そしたら皆んなも来るから、それなら外でやろうって、水車の所にいったんだ。それからずっとやっているんだから1年も休まないで。

 

(梅沢健三)

雨降ったこともあったなぁ。困ったなぁ。

 

(藤本)

佐藤 せい子さんも最初からやっていたので詳しい。

その頃は池田さんなんかと週に1回くらい飲んで、池田さんなんか2時も3時までも飲んで、そんなのばっかりだった。池田さんが一番元気良かった、その頃は。

函館まで朝市に行ったり、何であの頃、そんなに集まったのかな。入口さんの所にも良く集まった。

 

(梅沢健三)

それこそ、イカいっぱい買ってきて、2階で店やっていた、スナックやっていた、何て言ったっけ、あの店・・・、そう「幸子」、幸子がまだ2階でやっている時、持って行って分けてあげたことがある。お客さんに出すんだって、・・・いっぱいやった。

 

(藤本)

その頃は、店のママなんか皆んな手伝いに来て、売店で物売ってたんだから。

 

(梅沢健三)

そこでも良くやったでしょう。入口さんが末広でやっていた。入口 初美さんがやっていた「いこい」でもよく集まったな。

 

(入口セツ)

「いこい」は最初、高田さんだもの・・・。夏なんか、それこそ週に2回はうちに集まっていた。

 

(藤本)

俺が還暦になるんだから、ずいぶん長いことやってるんだ。

 

(神出)

あっちゃん(梅沢さんの長女)がポスターのモデルになったことがある、第4回のポスターだったと思うけど。その頃はまだ宣伝し必要で、ポスター作ったり、ラジオで宣伝したり、337号に予告看板立てたりして。

 

(梅沢陽子)

そんなことあったわね。

 

(梅沢健三)

末広の人との付き合いは深かったなぁ。よく「いこい」で皆んなと飲んで歌った、楽しかったなぁ。博美さんがまだ消防いた頃さ。

 

(神出)

博美さんが消防にいた頃から、消防の人にも随分手伝ってもらった。博美さんが声かけるから、大勢来てくれて、まつりの準備も1週間くらい前から設営に入っていたので随分助けられました。

 

(藤本)

今考えたら、あんな祭りなんか出来ない、10日以上かかっていたものね。祭りがおわったといっても1週間くらいかかったね。実際、半月くらい仕事にならなかった、飲み会もあったけど。今考えると良くやったなと思う。今ならテントなんか、みんな業者だけど。

 

(神出)

その頃は、ステージと売店の骨組みは地崎道路の人に組み立ててもらったけど、あとのシート張りはみんな自分たちだから。その前は観光連盟や自衛隊のテント借りたり、あれも大変だった。何箇所からも借りるから、部品が混ざって。

そういえば、千信から人道橋(現サーモン橋)まで交通止めしたこともあった。

 

(梅沢健三)

よくやったね、あんなこと。必ず文句つけられる筈なんだけど。

 

(藤本)

そしたって交通規制の看板だってかなり立てて、あっちこっちにたてるだけでも二日も三日もかかって。

 

(神出)

人道橋が通れないでしょう(車が)。あそこを交通止にすると根志越の関さんのところから迂回させなければならなくて、迂回路に高台の道路まで使って大変だった。住吉グランドを駐車場にしていたからなんだけど、サーモン橋開通で交通止はやめたんです。

 

(梅沢健三)

サーモン橋が開通したのは昭和62年、僕が市長になった年だった。そして東峰さんを先頭にあそこを渡り染めやったんだ。東峰さんが作ったんだから。図書館もあの人がやった。オープンの時に東峰さんを一番前に立たせた。そうやったんだ。

 

(藤本)

今ならそんなまとまりない。リードして飲んで歩く人もいなくなったもの。

 

(梅沢健三)

フジプラさんがやるんでなかったら、やる人がいないよ。

 

(神出)

まつりやり始めた時、フジプラさんだって30代だったでしょう。僕もそうだった。

今の30代の人にそういう勢いが見えないんです。

 

(梅沢健三)

組織なんかでもそうだよ。今の若い人は親方と酒飲むの大嫌いだから。昔なら、呼ばれたら嬉しくってついて歩いたもんだけど。

 

(藤本)

昔なら役所の中でも飲んでいた。今なら同級生と飲むのも警戒されちゃって・・・。

おかしな時代になった。何か世の中変だよね。

祭りやる1週間くらい前から、自分の庭でとうきび皮むいて、茹でて、祭りで売るため冷凍して、そして売ったんだもの。

 

(神出)

祭りの時期はとうきびが無くなるんですよ。だから社長のところで茹でて、そして、それを苫小牧の冷凍倉庫まで運んで・・・。

 

(清水)

だから、俺たち20何年以上ずっと、春からインディアン水車用の野菜つくっているんだもの。だから俺らの野菜が売れるんだよ。

 

(梅沢健三)

それだって記録だよ、大変なことだ。

 

(藤本)

10月のまつりの時はとうきびなんて無いんだもの。何千本も茹でて冷凍するんだから。

 

(入口セツ)

私らも野菜を、ただの所にもらいにいって、(サケ鍋作りを)やってたんだよ。人手も大変だった。だから、知ってる人に頼んで採ってきてもらった。

 

(入口博美)

この祭りのすごいのは人が集まって来ること、花ちゃん(花田 一衛さん)だって昼間から事務所に来て盛り上げて、酒も飲んで。

 

(入口セツ)

それが・・・、そのお金がどこから出て来るんだろうって、私らには不思議だった。

 

(入口博美)

皆んなで出し合っていたんだよ。だから祭り近づくとこづかいがすぐ無くなった。

 

(梅沢健三)

花ちゃんはそういう人恋しくて、人を集めれる人だった。人の居るところに出たくって、出たくって。それが楽しいんだ、また、それが・・・。

 

(入口博美)

だから、この祭りの実行委員会で、花ちゃんが死んでから人があんまり来なくなった。

昼間は誰も来ない。

 

(藤本)

花ちゃんなら昼間から肉買ってきて、「やるべぇー」って。その雰囲気がこの祭りにあるから続いている。

 

(神出)

開発さんが、この祭りに張り付いた時、初めの頃、ぜんぜん人が来なくて、それで「俺も考えて、焼酎を買って置いとくことにしたんだ」。「そうしたら、夕方から人が集まるようになったんだ」って言っていた。「人が来れば用事も頼めるし」って、それが続いている。

 

(梅沢健三)

開発君も大変だったんだなぁ。彼ならやるでしょう、そのくらいのことは。ようやった奴だ、良いにつけ、悪いにつけ。

 

(清水)

俺たちの釣堀のメンバーも10人くらいいるんです。家で何回も(宴会を)やった。

だから、黙ってても皆んな来る。80(歳)くらいの人でも来る。黙っていたら電話かかって来るんだ。「清水さん、今年も行かんとね」って。うちらのメンバーは変わんない、釣堀は本当に変わってない、20年くらい。

 

(藤本)

そう言えば、露天商の縄張り争いで大変な目にあったことがある。

会場に50人くらいのヤクザが集まって・・・。違う縄張りの人を入れたもんだから。

 

(神出)

そうそう、前日情報あって、青年会で緊急に集まって対策を相談したんだけど、名案なくて、とりあえず早朝に行ってみると、白い組と黒い組がにらみ合っていて、上から下まで真っ白と、上から下まで真っ黒と。

そんな事があったものだから、翌年は、事前に当事者、札幌の親分と早来の親分に祭りの事務所に来てもらって話し合いをすることにしたんです。当日になって、私一人しか出れなくなったので、仕方なく、3人で警察に行って、警察を交えて取り決めをしたのです。

それから、野元さんが課長で来て、露天商が排除になるまで、毎年、札幌の親分に電話して、前年どおりの仕切りで良いか確認をとっていた。札幌の親分は道央の責任者だったから。

彼らも、その後はルールを守ってくれてトラブルが無くなったんです。

 

(梅沢健三)

ところで、ちょっと考えたんだけど、サケ祭りの歴史を語る会と言うのを、このメンバーで立ち上げて欲しい。俺が主催するから。そして、ここには池田さんとか、そういう人達を何人か入れて、皆んなで入口 徳美の「徳」を称えなきゃいかんと俺は思う。

昔語って、今を語って、良いことだと思うんだけど、どうだべ・・・。

 

(藤本)

石田さんなんかと、そういう人をもう1回集めて、俺なんかもうわすれているから。

人数集めればいろんな事が出るから。

 

(神出)

あと5年したら30周年だから、それにむけて・・・。

 

(梅沢健三)

いろんな事が泉のように出てくる、この雰囲気はいいね。若い人に、これを語り継いでいかなければ、語り継いで若い人にバトンタッチしていくのさ。

 

(神出)

梅沢さんにまとめて頂きましたので、座談会をこれで終わりたいと思います。

お話を伺って、改めてこの「まつり」の底の深さを知りました。今後共、いろいろ「まつり」にアドバイスを頂きますようお願いいたします。

皆さん、長時間ありがとうございました。